高根城跡(浜松市)
高根城跡(たかねじょうあと)【浜松市天竜区水窪町地頭方・浜松市指定史跡】昭和57年2月16日
高根城跡は、町の東南端の久頭合の山頂、標高420mに位置しています。
南北朝時代、後醍醐天皇の孫伊良(ゆきよし)親王を守るためにこの地の豪族である奥山金吾正定則が応永21年(1414)に築いたといわれています。
(浜松市HPより 抜粋)
向市場遺跡(浜松市)
向市場遺跡(むかいいちばいせき)【浜松市天竜区水窪町地頭方・市指定史跡】昭和55年8月6日
昭和30年国鉄飯田線付替工事や土地所有者の小塩家、田中家の宅地造成工事中に多数の出土品が発見されました。
出土品の主なものは縄文時代後期から晩期(終末期)に至る縄文土器で(堀之内1式、加曽利B1I式、元住吉式、安行1式、五貫森式、水神平式)、石器は石斧(26点)石棒(8点)砥石(2点)石鏃(4点)などとなっています。
この付近は前方に水窪川が流れ、西向きの河岸段丘地です。
小塩家、田中家を中心にしてかなり広い範囲で出土し、また昭和44年飯田線踏切の電話線埋設工事の際にも出土しています。
またこの遺跡からは弥生時代前期のものも重複して出土しており、この遺物の主なものは(遠賀川式)壷、甍で、原型を保っています。
これらは弥生時代の文化の始まりを示すものです。
このように向市場遺跡は出土品も多く、かなりの範囲から遺物が発見されていることから、縄文時代の後半の時期に塩の道沿いとしてかなりの集落が営まれていたことが考えられます。
(浜松市HPより 抜粋)
宝平遺跡(浜松市)
宝平遺跡(ほうだいらいせき)【浜松市天竜区水窪町奥領家・浜松市指定史跡】昭和55年8月6日
昭和43年に長尾 渡辺忠久宅前の道路拡幅工事が施工された時、渡辺氏所有の畑約1m下より多数の土器が出土しました。
これらの土器は縄文中期から晩期(終末期)に至るもので(加曽利E式、蜆塚2式、彦崎K2式、上の段式、元住吉山式、踊場式、加曽利式)約40点に及んでいます。
中でも踊場式(長野県諏訪市出土)は中期最古(約3000年前)の物があります。
遺跡所在地は東向きの緩やかな河岸段丘で花崗岩の多く露出する中に黒色表土が目立っています。
日当たりもよく水利もあり、前方が開け裏山を背負っていて見通しがよかったので自然採取や狩猟に都合のよい絶好の場所として早くから人の生活があったものと想像されます。
その他の遺物として陶質の山茶碗も出土しているので鎌倉時代以降の生活も考えられています。
(浜松市HPより 抜粋)
犀ヶ崖古戦場(浜松市)
犀ヶ崖古戦場(さいががけこせんじょう)【浜松市中区鹿谷町・県指定史跡】
犀ヶ崖資料館は、三方原の戦いによる死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。
また、昭和5年(1930年)に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、永く利用されてきました。
浜松市は、昭和47年(1972年)3月に遠州大念仏を無形民俗文化財に指定するとともに、昭和57年(1982年)には、この建物を資料館として改修し、遠州大念仏及び三方原の戦いに関する資料を展示することにしました。
この資料館は、遠州大念仏及び三方原の戦いについての理解を深め、郷土に伝わる文化遺産を後世に残していくことを目的としています。
また、犀ヶ崖は浜松城の北側約1キロメートルにある渓谷で、三方原古戦場として昭和14年(1939年)に、静岡県の史跡に指定されました。
昭和58年4月開館。
(浜松市HPより 抜粋)
月夜平遺跡(浜松市)
月夜平遺跡(つきよだいらいせき)【浜松市天竜区水窪町奥領家・浜松市指定史跡】昭和55年8月6日
通称月夜平基地と言われるところで水窪川の右岸に面した河岸段丘地にあります。
細い黒色の表層土の中からいくつかの石鏃、土器片が発見されました。
いずれも縄文時代のものですが資料は散失して不明となっています。
場所は東向きで日当たりも最高であり裏山も深く、こうした立地は自然採取、狩猟をするのに恵まれていたと思われます。
(浜松市HPより 抜粋)
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