韮山役所跡(伊豆の国市)
韮山役所跡(にらやまやくしょあと)【伊豆の国市韮山・国指定史跡】
韮山役所跡は戦国時代から明治の中頃まで、地方政治の中心となった場所です。
江戸時代に代官を務めた江川氏は中世から続く古い家柄で、戦国時代には、戦国大名北条氏に仕え、後に徳川家康に仕えました。
江川氏は、韮山と江戸に役所を設け、伊豆・駿河・相模・武蔵、時には甲斐にまでまたがる最大で10万石ほどの幕府の土地を、江戸時代を通じて支配してきたのです。
このように長期間地域支配と行政の中心となった場所は、全国的にもまれです。
重要文化財に指定されている建物や、古文書などが現在まで保存されたことから、江川邸とその一帯が平成16年9月「韮山役所跡」として国の史跡に指定されました。
(伊豆の国市HPより 抜粋)
韮山城跡(伊豆の国市)
韮山城跡(にらやまじょうあと)【伊豆の国市韮山】
韮山城跡は、戦国時代、伊勢宗瑞(通称:北条早雲)が、韮山の丘陵に築いた山城です。
戦国時代のはじまりと終わりを語る、日本史上の転換点を示す城跡として、重要な城です。
韮山城本城や、その背後に位置する天ヶ岳遺構群だけでなく、これらを取り囲むように豊臣軍によって築かれた付城跡(つけじろあと)などの土塁や堀も残っています。
(伊豆の国市HPより 抜粋)
北条氏邸跡(伊豆の国市)
北条氏邸跡(円成寺跡)(ほうじょうしていあと(えんじょうじあと))【伊豆の国市寺家・中条・国指定史跡】
北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。
北条氏邸跡が位置する守山は北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。
守山の東側には氏寺である願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。
平成四年から五年にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見され、北条氏の館があることが確認されました。
元弘ニ(1333)年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。
そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。
円成寺は室町時代にも尼寺として続き、江戸時代まで続いたことが分かっています。
北条氏邸跡は北条氏が鎌倉に本拠地を移すまでの館跡と北条氏滅亡後の円成寺跡が発見され、北条氏の興亡を物語る遺跡として国指定史跡に指定されました。
北条氏邸跡は今後、史跡公園整備が計画されており、発掘調査が進められています。
(伊豆の国市HPより 抜粋)
毘沙門堂(伊豆の国市)
毘沙門堂【伊豆の国市】
国清寺の守護神毘沙門天を祀るお堂。
伊豆に流された怪僧文覚が草庵を結んだ場所とされている。
文覚は、同じく伊豆に流されていた源頼朝に源氏再興の挙兵をすすめ、願いのかなった頼朝が文覚に命じて毘沙門堂を建立させたといわれている。
安置されている毘沙門天は、天台宗の高僧慈覚が彫ったものと伝えられ、安養浄土院と称されていたが、頼朝が毘沙門堂を建立させるに当たって、瑞龍山授福寺と改められたという。
現在は、仁王門と毘沙門堂のみが残されている。
中道A遺跡(伊豆の国市)
中道A遺跡(なかみちAいせき)【伊豆の国市・県指定史跡】
縄文時代、人々は縄文土器を作り、煮炊きや食糧の貯蔵など様々な用途に使うようになります。
また、竪穴住居に住み、村を作るようにもなります。
市内には仲道(なかみち)A遺跡をはじめ、伊豆地方を代表する縄文時代の遺跡が存在します。
(伊豆の国市HPより 抜粋)
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