伊豆宮下遺跡(伊豆の国市)
伊豆宮下遺跡(いずみやしたいせき)【伊豆の国市中】
反射炉(江戸時代国防のため大砲を作ったところ)の南西200mのところ。
古川という小川に沿い宮下・台・内中とほぼ同じ時代の遺跡が連なっている。
弥生時代後期および古墳時代前期の遺跡で、S37古川改修工事によって発見され、4ケ所にわたり矢列が発見され、水田遺構と考えられている
城池(伊豆の国市)
城池【伊豆の国市韮山】
城池は、北条早雲の居城として知られている韮山城の外堀として一部が築造され、江戸時代には韮山代官の江川家の庭池でもあったといわれていますが、いつから農業用に利用されているかについては、わかっていません。
この池は、前述の韮山用水幹線改良事業、県営ため池等整備事業(昭和51年度〜54年度)や団体営水環境整備事業等(平成4年度〜8年度)により取水施設の補修や池本体の補強工事、親水機能の強化等が図られています。
これらの整備により、現在、この池は、農業用としてだけでなく、親水公園としても活用されています。
(静岡県HPより 抜粋)
蛭ヶ小島配流地(伊豆の国市)
蛭ヶ小島配流地【伊豆の国市】
蛭ヶ小島は、平治の乱後に源頼朝が配流された地である。
1160年、平治の乱で源氏の棟梁源義朝は敗死し、その子でまだ14歳の青年であった兵衛佐頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。
それから1177年に北条政子と結ばれるまでの17年間を、頼朝はこの地で過ごした。
そして1180年に旗揚げし、平家の目代山木兼隆を攻め滅ぼした後、石橋山で大庭景親率いる頼朝討伐軍を戦いを交えた。
その経緯は、石橋山古戦場の項に記載する。
この後、再起した頼朝は鎌倉に幕府を開き、日本史上初めての武家政権を樹立するのである。
最明寺(伊豆の国市)
最明寺【伊豆の国市】
伊豆長岡にある最明寺には、鎌倉幕府五代執権北条時頼の遺骨が分骨されているという。
『吾妻鏡』によれば、赤痢を患っていた北条時頼は、1256年(康元元年)11月22日、執権職を辞任。
翌日最明寺(鎌倉の寺)で蘭渓道隆を戒師として出家し、「最明寺入道」と呼ばれるようになる。
それから7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺の北の屋敷で37歳で亡くなった。
『吾妻鏡』には、 坐禅をくみながら臨終をむかえたたことが記されている。
最明寺:静岡県伊豆の国市長岡1150
珍野遺跡(伊豆の国市)
珍野遺跡(ちんのいせき)【伊豆の国市南江間】
珍野遺跡は狩野川放水路建設中に発見され、土砂の中から、田下駄、土器片、木片などを採集、弥生時代末期〜古墳時代初期の農耕集落遺跡。
浜松店053-453-6541
静岡店054-251-1728