反畑遺跡(三島市)
反畑遺跡(そりばたけいせき)【三島市北山】
縄文時代は、打製石器に磨製石器が加わり、土器や土製品が主要な生活用具として使用された時代である。
反畑遺跡は縄文時代後期の出土である。
特に土器の形態や紋様の変遷に応じて草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六時期に分けられているが、その早期以後の特殊な土製品として土偶が出現し、また中期以後には土器に付加された把手(とって)に人面または獣面を表した顔面把手も出現する。
土偶は人物、または動物をかたどった土製品であり、玩具あるいは呪術的な偶像として作製したことが偲ばれる。
そして、呪術的意義を持つものには特に女性像が多く、乳房や臀部(でんぶ)を誇張した裸像があって、生産の神としての地母神崇拝を表すものと解釈されている。
鶴喰広田遺跡(三島市)
鶴喰広田遺跡(つるはみまえだいせき)【三島市鶴喰】
三島市内にある遺跡。(縄文/弥生/古墳/中世細分不明/近世細分不明)
漆椀が出土されている。
ツル、松、笹などの縁起が良い図柄がみられる。
安久遺跡(三島市)
安久遺跡(やすひさいせき)【三島市安久】
三島市の南部、中郷地域はかつて一面の水田が広がる穀倉地帯でした。
中郷地区の南、大場川沿いにある「安久」は、弥生時代から稲作が営まれていた歴史の古い地域です。
平成11~12年 奈良~平安時代の人の顔を墨で描いた人面墨書土器が12点出土しました。
このほか人形木製品、舟形木製品、斎串、土師器、須恵器、木簡、馬・牛の骨など多様な遺物と、河川跡・掘建柱建物跡の遺構が検出されました。
古代において土器に墨書することは、土器の所有を示すだけでなく、祭祀や儀礼に伴って書かれています。
神や仏に捧げるもの、あるいは、土器や人形に疫神を表し、自分についた災いや穢れを祓うため、土器や木製品にそれらの穢れを乗り移らせ川に流して祓った、とも考えられています。
掘建柱建物は付近にあった津(港)に伴う倉庫と推定されます。
こうした遺物や遺構は官衙(国の役所)に関係した所からの出土例が多く、箱根田遺跡もまた、郡衙の役人達が穢れや災いを祓う祭祀を行っていたと考えられます。
安久はすでに南北朝期には「安富郷」として文献資料に見え、長く三嶋大社の荘園でした。
鎌倉時代初期、幕府を開いた源頼朝は三嶋大社に恩を感じ、安久の由緒正しい百姓を七人選び三嶋大社の大祭に輪番で代参させました。
これを「頼朝」と呼び、代参の道を「頼朝道」と言います。
安久から現在の136号線の東側を北へ上り、青木集落を通り、二日町から大社へ続く道です。
乾草峠遺跡(三島市)
乾草峠遺跡(ほしくさとうげいせき)【三島市佐野】
縄文時代早期の住居跡10数基を発掘した遺跡。
三島市内に約70箇所ある遺跡の中でも、貴重な資料を提供した代表的な遺跡です。
北山遺跡(三島市)
北山遺跡(きたやまいせき)【三島市佐野】
三島市内に約70箇所ある縄文時代の遺跡のひとつ。
縄文後期の土器、石器がまとまって出土し、敷石住居跡の多い地域として著名な遺跡です。
初期は乾草峠遺跡、中期から後期の土器群や石器を多量に出土し、箱根西麓最大級の遺跡といわれた史跡千枚原遺跡。
等は貴重な資料を提供した代表的な縄文時代の遺跡です。
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