見付(三島市)
見付(みつけ)
見付はもとは城門のことで、通行人を見張ることから起こった名称です。
宿場の出入り口にあって宿内の見通しを防ぐ施設でもありました。
夜間は扉を閉ざし通行人を止めるのが普通で、三島市内の見付は以下のとおりでした。
ここも枡型見付です。
なお北見付は樋口家文書『三島宿図』に記されていますが、場所がはっきりしません。
三島宿(三島市)
三島宿(みしましゅく)
三島市は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変なにぎわいを見せていました。
慶長6年(1601)徳川家康は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて第11番目の宿駅に指定されました。
その後、第三代将軍家光が参勤交代を制定し、各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は江戸防衛の役割を担うようになります。
また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。
伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。
三島宿は初代安藤広重)の代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。
また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政9年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています。
出典 『ふるさと三島』 P82、131、182、『四辻の町 三島』三島郷土資料館
市ケ原廃寺(三島市)
大興寺跡(市ケ原廃寺)いちがはらはいじ
三島市の三嶋大社南。
同大社に関係の深い丈部富賀満の私寺として白鳳時代に建立されたという。
平安時代の国分尼寺焼失後、836年に代用国分尼寺となった。
その規模は薬師寺式伽藍配置で、市内二日町の法華寺付近から北方の祐泉寺・三嶋大社前の国道1号まで延びた広範囲な地域を占める。
祐泉寺境内には当時の西塔の礎石が残っている。
錦田一里塚(三島市)
錦田一里塚(にしきだいちりづか)
江戸幕府(徳川家康)は、慶長9年(1604)主要街道に並木を植えるとともに一里塚を設置しました。
目的は大名の参勤交代や旅人の通行の便、馬や駕籠の賃銭の目安、旅人の憩いの場などです。
工事は大久保石見守長安を総監(総責任者)として進められ、東海道の一里塚は日本橋から京都三条まで(125里20町)(注1)の間に、1里(約4km)ごとの道路の両側に、高さ3尺(約1m)、幅5間(約10m)四方(または円形)の塚を築き、エノキの木などを植えて造られました。
塚に植える木の選定にあたって、大久保石見守が家康に伺ったところ、家康が「その方のええ木を植えよ」とか「よの木を植えよ」とか言われたのをエノキと思って植えたとの説がありますが、根が深く広がって、塚が崩れにくいとの理由からエノキが選ばれたと思われます。
ほかにはマツ、マユミなどがあります。
三島市には江戸から26里目(注2)の山中一里塚、27里目の笹原一里塚、28里目の錦田一里塚があり、特に錦田一里塚は道路の両側に向い合って一対(いっつい)あり(一対になっているところは、この近くでは少なく)、良く保存されていることから国指定の史跡に指定されています。
- (注1)約493km
- (注2)約102km
- → 箱根石畳、松並木
- 出典『三島市誌 中巻』P379、『三島市誌 増補』P989『ふるさとの街道』
伊豆国分寺・国分尼寺(三島市)
伊豆国分寺跡(いずこくぶんじあと)【国指定史跡】
国分寺は奈良時代に聖武天皇の勅願(注)によって、国ごとに設置された国立の寺院です。
国分寺には僧寺と尼寺の2つがあります。
僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」、尼寺は「法華滅罪之寺」といいます。
三島市に国分寺が建立された時期ははっきりしませんが、聖武天皇の勅命が出た天平13年(741)から宝亀元年(770)くらいの間で、当初の国分寺の位置は発掘調査の結果、泉町の現在の伊豆国分寺から本覚寺の辺りであることが確認されました。
現在の伊豆国分寺の本堂裏には8個の塔の礎石が残っていて、国の史跡に指定されています。
(注)勅命による祈願
出典『三島市誌 上巻』P325、『ふるさと三島』P11、189
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