接待茶屋(三島市)
接待茶屋(せったいぢゃや)
箱根は関所あり急な坂道ありで「箱根の山は天下の険」と言われたほど、旅人にとっては非常に苦労の多い大変な山越えでした。
こうした苦労を目の当たりにして、文政5年(1822)江戸呉服商人加勢屋与兵衛(当時74歳)は基金500両(約3,800万円)を幕府に出し、この利息で一般の人には湯茶を、馬には飼葉を接待しようと考えました。
そして、文政7年(1824)に山中一里塚と箱根町の畑宿に接待茶屋を設置しました。
人には湯茶、馬には飼葉を与え、寒い時期には人足・貧窮者にも粥を与えたり、焚火をしたりしていました。
与兵衛亡き後も、茶屋の運営は多くの篤志家たちにより受け継がれ、昭和25年(1950)まで続けられていました。
ちょうどこの辺りは三島市と函南町の境付近で、少し下ると旧東海道の石畳、明治天皇小休止跡碑、三島市ふれあいの森などがあります。
出典『三島市誌 中巻』P.566、『ふるさと三島』、『ふるさとのしおりみしま』、三島市郷土資料館HP
