安久遺跡(三島市)
安久遺跡(やすひさいせき)【三島市安久】
三島市の南部、中郷地域はかつて一面の水田が広がる穀倉地帯でした。
中郷地区の南、大場川沿いにある「安久」は、弥生時代から稲作が営まれていた歴史の古い地域です。
平成11~12年 奈良~平安時代の人の顔を墨で描いた人面墨書土器が12点出土しました。
このほか人形木製品、舟形木製品、斎串、土師器、須恵器、木簡、馬・牛の骨など多様な遺物と、河川跡・掘建柱建物跡の遺構が検出されました。
古代において土器に墨書することは、土器の所有を示すだけでなく、祭祀や儀礼に伴って書かれています。
神や仏に捧げるもの、あるいは、土器や人形に疫神を表し、自分についた災いや穢れを祓うため、土器や木製品にそれらの穢れを乗り移らせ川に流して祓った、とも考えられています。
掘建柱建物は付近にあった津(港)に伴う倉庫と推定されます。
こうした遺物や遺構は官衙(国の役所)に関係した所からの出土例が多く、箱根田遺跡もまた、郡衙の役人達が穢れや災いを祓う祭祀を行っていたと考えられます。
安久はすでに南北朝期には「安富郷」として文献資料に見え、長く三嶋大社の荘園でした。
鎌倉時代初期、幕府を開いた源頼朝は三嶋大社に恩を感じ、安久の由緒正しい百姓を七人選び三嶋大社の大祭に輪番で代参させました。
これを「頼朝」と呼び、代参の道を「頼朝道」と言います。
安久から現在の136号線の東側を北へ上り、青木集落を通り、二日町から大社へ続く道です。