錦田一里塚(三島市)
錦田一里塚(にしきだいちりづか)
江戸幕府(徳川家康)は、慶長9年(1604)主要街道に並木を植えるとともに一里塚を設置しました。
目的は大名の参勤交代や旅人の通行の便、馬や駕籠の賃銭の目安、旅人の憩いの場などです。
工事は大久保石見守長安を総監(総責任者)として進められ、東海道の一里塚は日本橋から京都三条まで(125里20町)(注1)の間に、1里(約4km)ごとの道路の両側に、高さ3尺(約1m)、幅5間(約10m)四方(または円形)の塚を築き、エノキの木などを植えて造られました。
塚に植える木の選定にあたって、大久保石見守が家康に伺ったところ、家康が「その方のええ木を植えよ」とか「よの木を植えよ」とか言われたのをエノキと思って植えたとの説がありますが、根が深く広がって、塚が崩れにくいとの理由からエノキが選ばれたと思われます。
ほかにはマツ、マユミなどがあります。
三島市には江戸から26里目(注2)の山中一里塚、27里目の笹原一里塚、28里目の錦田一里塚があり、特に錦田一里塚は道路の両側に向い合って一対(いっつい)あり(一対になっているところは、この近くでは少なく)、良く保存されていることから国指定の史跡に指定されています。
- (注1)約493km
- (注2)約102km
- → 箱根石畳、松並木
- 出典『三島市誌 中巻』P379、『三島市誌 増補』P989『ふるさとの街道』