下土狩公孫樹(長泉町)
下土狩公孫樹(大いちょう)【駿東郡長泉町】
下土狩の大いちょう」と呼ばれ、幹回り13m、樹高16m、枝張り最大8mの大木です。
樹齢は正確にはわかっていませんが、静岡県内でも有数の古木で、昭和11年に天然記念物として県の指定を受けています。
また、樹の根元には小さな祠があり、古来から乳の出る神様として妊婦の参拝者が多かったと言われています。
(ながいずみ観光交流協会HPより 抜粋)
向田A遺跡(長泉町) (長泉町)
向田A遺跡【駿東郡長泉町】
日本最古級(約3万年前)の石器
新東名高速道路建設に伴う発掘調査で、富士山の南にある愛鷹(あしたか)山麓の約3万年前の地層から、多数の石器が出土。
長泉町の向田A遺跡ナイフ形石器が出土しました。
南一色城(長泉町)
城山【駿東郡長泉町】
駿東郡長泉町南一色字北村
平山城
長泉南一色の丘陵性台地の先端部に位置する城跡
本城に関する伝承・記録等は何もない。
本城は長泉南一色の、北東から張り出した舌状の丘陵性台地の先端部、標高100mの通称城山に位置し、脚部よりの比高15mある。
城域は長さ350m、幅およそ130mあり、東側に梅ノ木沢(天神川)が迂曲して流れる。
主郭のⅠノ曲輪の北側に空堀切を画して北ノ曲輪、南東側にⅡ・Ⅲノ曲輪が連続している。
Ⅰノ曲輪は方55×30m、Ⅱノ曲輪は方40×30m、Ⅲノ曲輪はそれより一段下になって方40×25mあり、三つの小さな段状平場となる。
これらの曲輪には土塁が残っており、その下方の西から南側へ帯状の平場が連続している。
これに5本の竪堀と張出し平場がある。
Ⅰノ曲輪北側の空堀切の東堀底は通路となっていて、鍵ノ手に曲折して下におりる。
ここが大手口であろう。
北曲輪は長さ150m、幅30〜55mあり、高低のない平場となっているが、北端は低くなっていて、ここに大堀があったという。
本城は長久保城の北東500mにあり、出城であるとするものと、武徳編年集成にいう「天神川砦」であろうとする説もあるが、いずれも確証はない。
(城と戦国浪漫HPより 抜粋)
八分平E遺跡(長泉町)
八分平E遺跡(はちぶだいらいーいせき)【駿東郡長泉町】
縄文時代に弓矢が登場し、素早い動物も狩猟の対象となりました。
八分平E遺跡(長泉町)では木を切る斧ではなく、土を掘る鍬として使用された石器の打製石斧が出土しました。
天神川古城(長泉町)
天神川古城【駿東郡長泉町】
駿東郡長泉町南一色字天神山
平山城
稲垣平右門長茂
愛鷹山東麓の丘陵末端、通称天神山に位置する古城
武徳編年集成に「天正十壬午六月廿二日足高山麓天神川舊塁を築て、稲垣平右衛門長茂を籠らるる」とあり、また改撰諸家系譜には「(前略)稲垣平右衛門長茂、牧野右馬之允康成臣、天正十年三月此年駿州入御手、(中略)同年七月大神君於甲州新府、與北条氏對陣之時、為押相州於足柄山麓、天神古城長茂守之、(後略)」とあって、前者は足高山麓天神川舊塁とし、後者は足柄山麓天神古城とする。
本城は長泉町南一色小字新福地集落北方の裾野市富沢の境にあり、愛鷹山東麓の丘陵末端が梅木沢(天神川)で切断されて独立丘陵となった、標高115mの通称天神山に位置し、城域は長さ160m、幅100m、脚部の水田面からの比高23mであった。
地形図によれば丘陵頂部に四段の平場があり、南側及び東側の裾部に堀状の遺構が観察される。
本城は土取工事で完全に消滅した。
本城一帯を「てじろ」という。
南々西1kmの位置にある長久保城から500mのところに、南一色城があり、ここより500mの距離に本城が位置する。
したがって南一色城と共に本城は長久保城のいわゆる「てじろ」であったのではなかろうか。
(城と戦国浪漫HPより 抜粋)
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