麦原塚古墳(長泉町)
麦原塚古墳【駿東郡長泉町下土狩】
麦原塚古墳は、南小学校西方の台地上にあります。
情報は少なく、詳細は不明ですが石室材と思われる巨石を確認することができます。
(埼群古墳館HPより 抜粋)
高田屋敷 (長泉町)
高田屋敷【駿東郡長泉町】
駿東郡長泉町本宿字下モ
天文の頃から当地に土着していたと伝えられている高田氏の屋敷
伝承によれば天文の頃(1532〜55)から当地に土着していたとし、慶長8年(1603)天野景能の文書を伝えている。
屋敷は黄瀬川の旧河道と現河道の間の自然堤防上の、本宿小字下モに位置し、方80mあり、四周に土塁をめぐらしていたが、現在工場敷地となって消滅した。
門前西側に前田の小字名がある。
(城と戦国浪漫HPより 抜粋)
一柳直末公首塚(長泉町)
一柳直末公首塚【駿東郡長泉町・長泉町指定史跡】
一柳伊豆守直末は豊臣秀吉に仕え、美濃国軽海西城(岐阜県本巣郡真正町軽海)の城主となった安土桃山時代の武将です。
天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに参加し山中城(三島市山中新田)で戦死した。
この時、直末の首が敵方に奪われる事を恐れた旗持・留兵衛が、首を携えて軍を離れ、此の地に埋めたと伝えられている。
(.freeml.より 抜粋)
長久保城(長泉町)
長久保城【駿東郡長泉町】
駿東郡長泉町下長窪字城山
平山城
北条氏綱 豊臣秀吉
黄瀬川が大きく「くの字」に迂曲する北西側に位置する平山城
沼津市誌等によれば、文明14年(1482)葛山氏が沼津郷侵略のため、この長久保を據点にしたという。
また駿河記等の文献によると、天文6年(1537)北条氏綱が駿東・富士進攻のため、今川氏の築いた古塁の跡を修復して城にしたと伝えている。
天文14年(1545)今川氏は北条氏の侵攻に対し、本城を攻撃してこれを奪った。
以降、再び北条氏の支配に移ったが、元亀年間(1570〜73)から天正10年(1582)まで武田氏、天正10年以降から慶長9年(1604)の廃城まで徳川氏が支配したという。
この間天正18年(1590)小田原征伐の時、徳川氏は豊臣秀吉を本城に迎えたと伝えられている。
本城は長泉町下長窪地先で、黄瀬川が大きく「くノ字」状に迂曲する北西側の、愛鷹山麓末端台地上小字「城山」に位置し、南駿から北駿に至る入口部を扼している。
本城は背後の、脚部からの比高15〜25mの丘陵台地へ樹枝状に喰い込んだ沢谷を、空堀切で区切り、南端の黄瀬川に面した一郭を主郭とし、その北西側へⅡ・Ⅲノ曲輪を梯形状に配している。
それに八幡曲輪、南曲輪を、主郭の南前面には大手曲輪を構える。
東側は沢谷を堰止めて大水濠とし、そのさらに東側に突出した舌状台地を、基部から三つの空堀切で画して東出曲輪をつくっている。
以上、東西550m、南470mを確認した城域とし、大手曲輪南前面の下長窪を在番城士の根古屋集落に該当させている。
本城は既に土取工事、学校建設等によって、本郭、Ⅲノ曲輪、東出曲輪の大半は消滅した。
昭和49年国道246号バイパス建設工事に伴って、八幡曲輪、Ⅱノ曲輪(二ノ丸)が破壊されることになったので、緊急発掘を実施した結果、畝空堀が新旧2種類、六棟以上の掘立柱建造物、柵・門・石敷・通路・溝址・雛段状遺構、内郭址等が検出され、遺物として、陶磁類、燈明皿、硯、水滴、砥石、小柄、鏃、釘、締金具、金箔片、鉄片、古銭、銃弾等が出土した。
遺構では三島市山中城にみられる畝空堀が顕著で畝に水門址が一部みられた。
遺物のなかで陶器類の99%は16世紀前半の美濃大窯産のもので、これによって本城の文献上の支配経営年代と、遺物から示された在城年代とは大差のあることが判明している。
(城と戦国浪漫HPより 抜粋)
御長屋 東照宮(長泉町)
御長屋東照宮【駿東郡長泉町】
明治維新により幕府は解体し、徳川家は江戸(東京)から駿府(静岡)に移され祿高も、これまでの八百万石から七十万石になった。
祿高が減少したことから、旗本・御家人など徳川家の家臣団は各地に分散して自活の道を求めた。
(静岡県駿東郡長泉町)元長窪の地には、七十八戸・九十六戸籍が入植して、愛鷹の開墾にあたったそうです。
御長屋 東照宮 : 明治三年(1830)久能山より勧請し建立
社銘碑 : 平成三年 建之
鳥 居 : 平成十七年 建之
(.freeml.より 抜粋)
浜松店053-453-6541
静岡店054-251-1728