長久保城(長泉町)
長久保城【駿東郡長泉町】
駿東郡長泉町下長窪字城山
平山城
北条氏綱 豊臣秀吉
黄瀬川が大きく「くの字」に迂曲する北西側に位置する平山城
沼津市誌等によれば、文明14年(1482)葛山氏が沼津郷侵略のため、この長久保を據点にしたという。
また駿河記等の文献によると、天文6年(1537)北条氏綱が駿東・富士進攻のため、今川氏の築いた古塁の跡を修復して城にしたと伝えている。
天文14年(1545)今川氏は北条氏の侵攻に対し、本城を攻撃してこれを奪った。
以降、再び北条氏の支配に移ったが、元亀年間(1570〜73)から天正10年(1582)まで武田氏、天正10年以降から慶長9年(1604)の廃城まで徳川氏が支配したという。
この間天正18年(1590)小田原征伐の時、徳川氏は豊臣秀吉を本城に迎えたと伝えられている。
本城は長泉町下長窪地先で、黄瀬川が大きく「くノ字」状に迂曲する北西側の、愛鷹山麓末端台地上小字「城山」に位置し、南駿から北駿に至る入口部を扼している。
本城は背後の、脚部からの比高15〜25mの丘陵台地へ樹枝状に喰い込んだ沢谷を、空堀切で区切り、南端の黄瀬川に面した一郭を主郭とし、その北西側へⅡ・Ⅲノ曲輪を梯形状に配している。
それに八幡曲輪、南曲輪を、主郭の南前面には大手曲輪を構える。
東側は沢谷を堰止めて大水濠とし、そのさらに東側に突出した舌状台地を、基部から三つの空堀切で画して東出曲輪をつくっている。
以上、東西550m、南470mを確認した城域とし、大手曲輪南前面の下長窪を在番城士の根古屋集落に該当させている。
本城は既に土取工事、学校建設等によって、本郭、Ⅲノ曲輪、東出曲輪の大半は消滅した。
昭和49年国道246号バイパス建設工事に伴って、八幡曲輪、Ⅱノ曲輪(二ノ丸)が破壊されることになったので、緊急発掘を実施した結果、畝空堀が新旧2種類、六棟以上の掘立柱建造物、柵・門・石敷・通路・溝址・雛段状遺構、内郭址等が検出され、遺物として、陶磁類、燈明皿、硯、水滴、砥石、小柄、鏃、釘、締金具、金箔片、鉄片、古銭、銃弾等が出土した。
遺構では三島市山中城にみられる畝空堀が顕著で畝に水門址が一部みられた。
遺物のなかで陶器類の99%は16世紀前半の美濃大窯産のもので、これによって本城の文献上の支配経営年代と、遺物から示された在城年代とは大差のあることが判明している。
(城と戦国浪漫HPより 抜粋)