牧堰(沼津市)
牧堰(まきせぎ)【沼津市】
牧堰は、鮎壺の滝の300m上流において黄瀬川の水を分水する堰で、市内北小林地内で取り入れ、ほぼ狩野川、黄瀬川、岡宮東間門を結ぶ線、愛鷹山麓で囲む地域の水田の灌漑用水を供給し、いわば沼津を養い育てた母親であるといえよう。
慶長7年(1602)、岡宮東間門以東15ヵ村の組合につくられ、その後正保年中には門池を補助貯水池としながら 397町歩の水田を潤した。
牧堰の水の多寡は農民の生活、生命に直結するものであったから、干魃時には川下の本宿堰や大岡と沼津宿などの間で水争いが起き、順番に水を配る番水や夜通し水路を見張る番小屋が建てられたりしたが、ときには流血の惨事すら起こることもたびたびであった。
(沼津市HPより 抜粋)
井田松江(いだすんごう)古墳群(沼津市)
井田松江古墳群(いだすんごうこふんぐん)【沼津市井田】
駿河湾を間近に望む狭い尾根上に分布する群集墳。
20数基が確認されている。
公園として整備公開されている。
29基が確認されており古墳時代後期の築造と推定されている。
(埼群古墳館HPより 抜粋)
三明寺経塚(沼津市)
三明寺経塚(さんみょうじきょうづか)【沼津市】
三明寺経塚は、沼津にあった5つの経塚の一つで、その規模が大きいことで有名である。
享保19年(1734)2月8日、暴風のため倒れた老松の下から偶然発見された。
掘り出された経筒は三明寺に、外筒容器は村人にわたり、これが散失するのを憂えた地元の飯田基良老人が同年7月11日に再び埋納した。
発見及び再埋納の経緯は、塚の上に残る石碑、白隠筆の由来書、白隠の語録である『荊叢毒蘂』に記されている。
その後、200年を経て、昭和15年(1940)静岡県史編纂に伴う発掘調査が行われた。
内部には、中央に銅板製経筒の納められた外筒容器6口があり、それを囲むように40近い外筒容器が並べられていた。
発掘された経筒6口のうち、4口には篭字の印刻銘があり、そのすべてに「建久七年」(1196)の年号が見られる、これらのことより、平安時代の後半から末法思想の影響を受けて盛んになった如法経信仰(如法経・・・・・・法式どおり経典を清浄に造写することや、その経典をさし、また、それを安置・埋納する供養をさす。
)に基づき、鎌倉時代初頭に百部の写経を行い、これらを埋納するために造営されたものであることが明らかである。
(沼津市HPより 抜粋)
井出丸山古墳(沼津市)
井出丸山古墳【沼津市井田】
本古墳は、蓮興寺北西の東名高速道路の台地上にあります。
- 円墳 径10〜15m、高さ約2m丘陵
- 横穴式石室をもつ6世紀後半築造と推定される円墳。
- 奥行きはあるが非常に狭い。
全長約6m、幅約1m、高さ約1m。
震災追弔の碑(沼津市)
震災追弔の碑(しんさいついちょうのひ)【沼津市】
安政元年(1854)11月4日、駿河地方に大震災が起きた。
このとき、ここ駿東郡大岡村南小林の約2ヘクタールほどの土地が一瞬のうちに約6メートル陥没し、住家9戸がすべて埋没してしまった。
時に午前10時。
あまりにも急なことだったので逃げるひまもなく、土中に生き埋めとなり泣き叫んで救いを求め、村人がかけつけたが、地震のため村の北側の用水路が決壊し、水が流れ込んできたので、ついに救うことができなかった。
死者11名、死体が発見されたのはわずかに2人だけであった。
陥没の跡は巨大な穴となり、数年経ってからようやく草が生え始めた後に、村人が樹木を植えたので、その後は林になっていったという。
大地震から50年後の明治36年(1903)11月、この地に「震災追弔の碑」が建てられた。
(沼津市HPより 抜粋)
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静岡店054-251-1728