宮川古墳群(静岡市駿河区)
宮川古墳群【静岡市駿河区】
静岡市駿河区大谷の宮川古墳群は、7基の古墳で構成されています。
市指定史跡 諏訪神社古墳(宮川4号墳)が、諏訪神社境内に唯一残存。
古墳時代中期から後期(5世紀から6世紀前半)頃に築かれたと推測される、直径約30m、高さ5mの円墳。
諏訪神社古墳(宮川4号墳)(静岡市駿河区)
諏訪神社古墳(宮川4号墳)
【静岡市駿河区・市指定史跡 】静岡市駿河区大谷の宮川古墳群は、7基の古墳で構成されています。
市指定史跡 諏訪神社古墳(宮川4号墳)が、諏訪神社境内に唯一残存。
古墳時代中期から後期(5世紀から6世紀前半)頃に築かれたと推測される、直径約30m、高さ5mの円墳。
(静岡観光おでかけガイドより 抜粋)
久能山東照宮(静岡市駿河区)
久能山(くのうざん)【静岡市駿河区・国指定史跡】
日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である。
晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された。
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した。
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された。
久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。
推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。
永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。
しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
(wikipediaより 抜粋)
松雲寺古墳群(静岡市駿河区)
松雲寺古墳群(しょううんじこふんぐん)【静岡市駿河区】
静岡市駿河区向敷地の松雲寺古墳群(しょううんじこふんぐん)は、古墳時代後期(6世紀後半)以降に築かれた円墳6基で構成されています。
5基は、横穴式石室を有する古墳です。
昭和33年(1958年)、調査を実施。
出土品は、須恵器(杯身、杯蓋、平瓶(ひらべい)、フラスコ型瓶)、大刀。
登呂遺跡(静岡市駿河区)
登呂遺跡(とろいせき)【静岡市駿河区・国指定の特別史跡】
昭和18年の軍需工場建設の際、多量の木製品や土器片が出土したため、同年第一次の発掘調査が行なわれました。
戦後間もない昭和22年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての学際的発掘調査が行なわれました。
発掘調査により東西に長い自然堤防上に、12軒の家、2棟の倉庫、井戸、森林の跡や、南側には水田の広がりが見つかりました。
遺跡からは、壺・甕などの土器、石器の狩猟漁撈具、木製の農耕具・機織具・日常生活用具、青銅製装身具など、多種多様な生活に関する道具が出土しています。
現在、遺跡内には、復元住居や復元倉庫、赤米など米づくりを行っている復元水田が広がっています。
遺跡に隣接して「静岡市立登呂博物館」があり、1階は参加体験型展示、2階は登呂遺跡の考古資料の展示がなされています。
平成11年度より5カ年計画で再度発掘調査が始まり、毎年夏〜秋に調査が実施されました。
この再発掘調査の成果をもとに平成18年度から登呂遺跡の再整備工事を行い、平成24年度リニューアル・オープンしました。
(静岡市HPより 抜粋)
浜松店053-453-6541
静岡店054-251-1728