佐渡山古墳群跡(静岡市駿河区)
佐渡山古墳群跡【静岡市駿河区】
西宮神社境内を中心に発掘された当古墳群は、これまでに7基の調査が行われました。
これらの中には賤機山古墳に次ぐ規模の横穴式石室で、組合せ式箱型石棺二基を設け銅鏡、馬具類等が副葬されているものもありました。
この古墳群は、今から約1500年前から100年間以上にわたりこの地を治めた有力者たちの古墳として作られたと考えられます。
現在地から万葉以来東海の歌枕として知られる「手児の呼坂」に至る丘陵には縄文、弥生各時代の遺跡も多く、数千年の昔から古代人の生活の営みを知ることができます。
(手越〜丸子 より 抜粋)
小鹿古墳群(静岡市駿河区)
小鹿古墳群(おしかこふんぐん)【静岡市駿河区】
静岡市駿河区小鹿の小鹿古墳群は、古墳時代後期(6世紀中葉)から古墳時代終末期(7世紀初め)に築かれた、円墳18基・方墳1基で構成されています。
静岡大学北側の南向き斜面に分布していますが、大半は開墾により消滅しているようです。
丸子宿(静岡市駿河区)
丸子宿【静岡市駿河区】
東海道五十三次の20番目の宿場町。
この道筋は江戸時代の東海道です。
ここ丸子(まりこ)は文治5(1189)年、源頼朝が、奥州平定の功績により、手越平太家継(てごしへいたいえつぐ)という駿河の武士に丸子一帯を与えて駅家(えきけ)を設けたのが起源と言われています。
今の元宿といわれる辺りです。
戦国時代には今川家に仕えた連歌師宗長(そうちょう)も「丸子という里、家5、60軒、京鎌倉の旅宿なるべし」と気しています。
江戸時代になり、徳川家康によって東海道の整備が行われると、丸子宿は品川宿から数えて20番目の宿場町に定められました。
比較的小さな宿場町であったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していました。
これを助郷制度(すけごうせいど)といいます。
(手越〜丸子 より 抜粋)
小鹿6号墳(小鹿山神古墳、山神古墳)(静岡市駿河区)
小鹿6号墳(小鹿山神古墳、山神古墳)【静岡市駿河区】
小鹿6号墳(小鹿山神古墳、山神古墳)は、古墳時代後期(6世紀末)に築かれた一辺約25mの方墳。
古墳時代終末期(7世紀)まで、追葬が行われていました。
巨大な横穴式石室から、伊豆凝灰岩製の刳抜式石棺2基・組合式箱形石棺3基が見つかり、須恵器、大刀、刀子、馬具、玉類が出土。
発掘調査が行われていないため、詳細不明の古墳です。
丸子本陣跡(静岡市駿河区)
丸子本陣跡【静岡市駿河区】
丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町に定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長6年(1601)です。
江戸から数えて20番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は200戸余りでした。
宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿の宿泊所で大名宿ともいわれました。
建物は書院造りで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが明治3年新政府によってこの制度は廃止されました。
(手越〜丸子 より 抜粋)
浜松店053-453-6541
静岡店054-251-1728